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ジャパンボウル入賞者の日本研修旅行に協力(3)

3)  歌舞伎座見学と歌舞伎鑑賞

レベル4(最上位クラス)の優勝チーム、カリフォルニア州モンタビスタ高校の3名は、Mazda Foundation の支援により、東京での滞在が数日延長されました。彼らは事前に東京で行ってみたい場所を選び、立教大学の学生さん達が案内役としてサポートし、東京見学を楽しみました。JBSGとしては、この期間に是非見学してもらいたい場所として歌舞伎座見学を提案し、歌舞伎座のご厚意を得てそれが実現しました。

歌舞伎座は、これまでに数多くの海外公演をしており、2007年にはワシントンDCの日米協会創立50周年記念事業として平成中村座が出演していることもあり、ジャパンボウルへの理解も深く、アメリカの高校生の見学に最大限の協力をして下さいました。普通では入れない、歌舞伎座の舞台裏、奈落見学や、楽屋訪問が許され、付き添いとして参加した我々も大変貴重な経験をさせていただきました。

舞台裏見学

8月12日(金曜日)、この日は丁度8月納涼歌舞伎で、出し物は三部構成になっています。我々一行は、第二部を観劇しました。そして第一部と第二部の幕間の時間に、舞台裏見学が許されました。初めて見る舞台裏、新装となった歌舞伎座の舞台裏は、想像をはるかに超えた広さと収納されている大道具、小道具の大きさに圧倒されました。圧巻は回転する舞台中央の奈落、装置や機材が並び、仕掛けの大きさと幕間の時間に大車輪で仕事をされている大勢の裏方の方々の心意気が素直に伝わってきて、一つの舞台を作り上げる大きな力を目の当たりに見ることができました。

楽屋見学

その後、坂東彌十郎さんの楽屋を見学させていただきました。ジャパンボウル優勝の高校生3名に付き添いが11名、14名の人間がゾロゾロと楽屋を訪問したので、彌十郎さんもさぞ驚かれたのではないかと思います。しかも、息子さんの坂東慎吾さん共々第二部にご出演になる大変忙しい時間にもかかわらず、にこやかに迎え入れて下さり、頭が下がりました。高校生には、歌舞伎の概要や、これから観劇する「納涼歌舞伎」が、古典歌舞伎とは一味違う「陽気でテンポのある新しい歌舞伎」であること、アメリカ公演の時の様子なども熱心にお話ししていただきました。高校生のみならず、付き添いの我々もすっかり魅了され、記念撮影をせがんで、少々はしゃいでしまいました。

歌舞伎観劇

3階席から見る舞台

八月納涼歌舞伎第二部の出し物は、「東海道中膝栗毛」と「艶紅曙拙(いろもみじつぎきのふつつか)」でした。

「東海道中膝栗毛」は、弥次郎兵衛(染五郎)と喜多八(猿之助)のお伊勢参りの道中記ですが、東海道から、なんとラスベガスまで飛んで行く、奇想天外の珍道中となり、あっという間にラスベガスの華やかなショーの中に放り込まれた2人の慌てぶりや、歌舞伎役者の演じるラインダンス、派手な音楽、きらびやかな舞台演出に圧倒されてしまいました。これが歌舞伎?と驚きながらもテンポの良さと、役者さん達の芸達者ぶりに引き込まれ、最後の宙乗りに拍手喝采して大いに盛り上がりました。そう、これが歌舞伎、まさに「かぶ(傾)く」なのだと納得し、いつの時代でも「かぶく」に挑戦している歌舞伎の一面が垣間見られました。

「艶紅曙拙」は、富士山の山開きで賑わう江戸の浅草が舞台で、江戸商人の様々な姿を披露する舞踊です。暑い夏に涼を売る商人達が登場し、江戸の風俗や慣習を伝えてくれる作品でした。数日前に私達が主催した交流会で、稀音家六綾先生から歌舞伎と長唄の関係を説明していただき、三味線と長唄の演奏を聴いたばかりの高校生達は、「これだ、これだ」と喜んでくれました。タイミングの良いことに、舞台には蝶々売り、朝顔売り、虫売りに加え、団扇売りも登場したので、先日手作りをした団扇が、江戸時代の風物としても理解してもらえたと思います。

こうして歌舞伎座見学と歌舞伎観劇は無事終了しました。歌舞伎の価値や芸術性がどれだけ伝えられたかは分かりませんが、日本の伝統芸能である歌舞伎を直に鑑賞し、舞台裏を見学し、役者さんとお話しをする機会を持てたことは、強い印象を残したと思います。

ここに、改めて歌舞伎座と坂東彌十郎さんをはじめ多くの方々のご厚意に深く御礼申し上げます。

 

ジャパンボウル入賞者の日本研修旅行に協力(2)

2)  ジャパンボウルサポーターズグループ(JBSG)主催の交流会を開催

Kakehashi Projectが用意した8日間のプログラム(日本国際協力センター:JICE作成)で、8月9日(火)の半日をいただき、ジャパンボウル入賞者を歓迎する、JBSG主催の初めての交流会を開催しました。高校生達が最も望んでいるのは、同世代の日本の若者達との交流だとの情報をもとに、日本の高校生や大学生に参加を呼びかけ、日米の学生さん同士が直接触れあい、交流できる場を提供することを目的としました。ちょうど夏休み期間中で、高校生の参加は難航しましたが、それでも日本女子大附属高校生4名、立教女学院高校生3名、加えて、東京大学と国際基督教大学の長唄研究会の大学生、大学院生12名、高円宮杯全日本中学校英語弁論大会のOBの大学生9名が参加して下さいました。
以下プログラムの順にその様子を簡単に紹介します。

日時:2016年8月9日(火) 10;00-13:30
場所:日本女子大学桜楓2号館
プログラム:
10:00 開会の辞
10:05-10:45 長唄・三味線の演奏とワークショップ
(稀音家六綾先生、東京大学、国際基督教大学長唄研究会)
10:45-11:30 手作り団扇のワークショップ
11:30-13:15 軽食をとりながらの交流会

①開会
天気予報で、今夏最高気温になると予想されていた猛暑のこの日、研修旅行の高校生が付き添いの先生、JICEの担当者、外務省担当者達と一緒に元気に会場に到着し、ほぼ定刻に会が始まりました。開会に先立ち、JBディレクターの神尾からJBSGの結成に至る経緯が紹介され、あらためて結成3年の時の流れを実感しました。

②長唄・三味線の演奏とワークショップ
三味線の稀音家六綾先生は、「希扇会」を主宰されていて、多くの大学で三味線の講師を務め、若い世代をはじめ、国内はもとより海外でも広く三味線の普及に尽力されておられます。JBSGでは六綾先生に協力していただき、交流会の幕開けに東京大学と国際基督教大学の長唄研究会の学生さん達による、長唄・三味線の演奏を持ってきました。今夏一番の暑さを記録したこの日、和服に着替えた学生さん達の長唄と三味線の演奏は、真剣さと若さがみなぎった素敵な音色を奏でました。

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最初に六綾先生から日本語と英語による三味線の歴史や演奏様式、歌舞伎における三味線の役割など、とても分かりやすくかつ興味深い説明がありました。要領を得た”しおり“も配布され、アメリカの高校生のみならず、我々を含めほとんどの参加者が初めて知る内容で、古代エジプト(ネフェル)からペルシャ(セタール)、モンゴル(ホーブスー)、中国(サンゲン)、沖縄(サンシン)と変遷して日本で根付いた三味線の由来は、壮大な距離と時間をしのばせて、三味線をあらためて見直す機会にもなりました。そしていよいよ演奏です。


ほぼ全員が、大学に入ってから初めて三味線に触れる「全くの素人集団である」と、六綾先生から念を押されていましたが、私達にとっては、溌溂とした素晴らしい演奏で、すっかり感激しました。途中で先生から曲の解説もあり、アメリカの高校生も興味深々の様子で聞き入っていました。また、紙芝居よろしく、先生の説明を絵で表した大きな紙を掲げ、理解を助ける工夫をしたプレゼンテーションに、研究会の学生さん達の心意気が良く伝わってきました。最後に全員で元気に「東京音頭」を合唱し、楽しい演奏が終了しました。

③記念撮影

演奏家の皆さんが正装している間に記念撮影です。皆の楽しそうな表情にご注目下さい。20160809-18

④ 手作り団扇のワークショップ
用意したもの
竹製の無地団扇
千代紙 糊 ハサミ
カラーペン
筆、墨
参加者全員に無地の団扇を配り、千代紙やカラーペンを使って自由に団扇に模様を付けてもらいました。コーナーに墨と筆を用意し、JBSG支援者の書家に協力してもらい、希望者には日本の文字を筆で書いてもらったり、自分で文字や絵を描いたりできる場所も設けました。最初はやや戸惑っていたアメリカの高校生達も、日本の学生さん達のやり方を見たり、指導を受けたりして、あっという間に要領を覚え、器用に千代紙を切ったりちぎったり、絵をかいたり、文字を書いたりと自分の団扇作りを楽しんでくれました。中には、自分の名前を漢字にあてはめ、「この字を書いて!」と頼みにくる人、好きな漢字を紙に書いて、「筆でこの空間にこのように書いて!」とリクエストする人もいて、会場は賑やかな雰囲気になってきました。

くじ引きで席を決めたおかげで、最初は戸惑い気味の日米の学生さん同士が、このワークショップを行うことで、作品を見せ合ったり、助言をしたりして、すっかり打ち解けてきました。完成した団扇は、私達の予想をはるかに超えた、自由で伸びやかな個性的な仕上がりで、若さの素晴らしさを痛感しました。

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⑤ 昼食をとりながらの交流会・三味線ワークショップ

「お腹すいた!」の無邪気な声にせかされて、コーナーにお寿司、カツサンド,唐揚げ、焼き鳥、温野菜サラダ、オードブル、果物、飲み物などを準備しました。img_0973また、今朝早く収穫したという数種類のミニトマトを、山のように抱えて持参してくれた、JBSGの協力者のおかげで、瑞々しくて美味しいトマトをカップに入れて彩よく配置すると、なかなかのお料理になりました。

連日のパーティー料理で飽きないか心配しましたが、予想以上に好評で皆積極的に取り分けてくれ、安堵しました。作ったばかりの団扇を見せ合ったり、メール交換をしたり、何やら楽しそうに会話を続けたりと、各テーブルがすっかり賑わってきてうまく交流しあっている状況がはっきり見て取れるようになってきました。大学生達の存在も大きく、彼らは日米両高校生達の会話のつなぎ手として、重要な働きをしてくれました。

お腹が少し満たされたところで、長唄研究会のご好意で練習用の三味線数棹を、会場に用意していただき、研究会の学生さん達が弾き方を指導して下さるワークショップが始まりました。最初は少し躊躇していた高校生達も、一人、二人と挑戦する人が現れると、自分もやりたくなるようで、最後は列ができるほどの盛況ぶりになりました。どの人も三味線の持ち方、撥の使い方などの説明や指導を受けると、それなりになかなか様になって行きます。説明はとても分かりやすく、習っている学生は皆真剣です。会場のあちこちで柔らかな三味線の音が響いていました。

④閉会

手作りペン皿

あっという間の3時間半でした。会の終わりに、JBSGのメンバー手作りの「ペン皿」を、プレゼントしました。これは、JBSGのメンバーと協力者達で作成したオリジナル作品です。付き添いの先生方には、抹茶茶碗をお渡ししました。

高校生の代表からは、心のこもったお礼の言葉と、今年のジャパンボウルのパンフレットやグッズをいただきました。

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ワシントンDC日米協会会長夫人、マロット裕子さんの遺志を継ぐ形で立ち上げたJBSGですが、メンバーとその協力者も合わせると総勢80名でこの交流会を無事に開くことができました。彼岸で彼女が喜んでいてくれるような気がしています。いつも応援して下さる皆様のご協力に感謝するばかりです。

明るくパワー溢れるアメリカの高校生達は、日本に来てどのような感想を持っているのでしょうか。彼らと交流した日本の高校生や大学生・大学院生は何を感じたのでしょうか。今だけでなく、数年後、数十年後にもその答えを聞いてみたい気がします。参加した日本女子大附属高校生達は、この交流会の模様を、「学校新聞」に掲載したそうで、その記事を読む機会がありました。”双方が日本語と英語を交えながら、一生懸命会話をし、何とか理解しようと向き合う真っすぐな気持ちがお互いにあることを感じ、それが格別に嬉しかった”こと、”外国人との交流というより、新しい友達とのおしゃべり”という感覚になるほど夢中で会話をした素敵な時間だった、と結んでありました。主催者として、嬉しい限りです。

JBSGの活動を知って、快く協力して下さった、稀音家六綾先生、東京大学、国際基督教大学の長唄研究会の皆様、高円宮杯全日本中学校英語弁論大会のOBの皆様に心から御礼申し上げます。また、日本国際協力センターから多大なご協力をいただきました。有難うございました。

 

 

ジャパンボウル入賞者の日本研修旅行に協力(1)

2016年4月のジャパンボウルで入賞した24名の高校生が、外務省が推進する青少年交流のための「KAKEHASHI Project」と「Mazda Foundation」により8月3日から10日まで日本に招聘されました。また、レベル4(最上位レベル)の優勝チーム3名は13日まで滞在しました。

一行は3日に成田に到着後、すぐに広島に移動して7日まで滞在し、マツダの工場見学、広島平和記念公園や平和記念資料館の見学、宮島観光、広島国際学院高校の高校生達との交流、ホームステイ体験、熊野の「筆の里工房」見学など様々な体験をしたのち、8日から数日東京で過ごしました。私達ジャパンボウルサポーターズグループは、東京での数日のプログラムに協力しました。以下順にご紹介いたします。

1)2016年度ジャパンボウル入賞者歓迎レセプションに参加

2016年8月8日(月)、ワシントンDC日米協会と在日米国大使館が主催する、ジャパンボウル入賞者達を歓迎するレセプションが、例年通りAmerican Centerにて開催されました。ジャパンボウルサポーターズグループからも5名が参加しました。

レセプションは午後6時から始まり、参加者の拍手の中でお揃いの青いTシャツ(今年は、ジャパンボウル・キャラクター“Kanji-Kun”と有言実行の文字)に身を包んだ入賞者24名が元気に登場です。

今年はジャパンボウル名誉総裁の高円宮久子妃殿下のご臨席があり、会場が一段と華やいでいました。ジャパンボウルディレクターの神尾りささんの歯切れのよい司会でテンポ良く進行してゆきます。アメリカ大使館公使の暖かい歓迎の辞につづき、高円宮妃殿下の慈愛に満ちた素晴らしいスピーチがありました。高校生のみならず臨席した私達も、妃殿下の力強いメッセージに感動しました。

続いて研修旅行に参加した高校生を代表して、レベル4優勝チームの3名がそれぞれ、広島で見学や体験した出来事を日本語で報告し、この研修旅行への感謝の言葉を述べました。そしてこの3名には高円宮妃殿下からメダルが授与されました。毎年のことながら、レベル4、つまり4年間の日本語学習で、ここまで日本語が話せるようになるためには、一体どの位勉強をしているのかと感心する見事な挨拶でした。

そして参加者全員で記念撮影、出来上がった写真は陽気な彼らの元気な姿を映し出しています。

Photo by US Embassy JAPAN
Photo by US Embassy JAPAN

ここからは、会場の端に設けられたテーブルに、美しく並べられた心尽くしのお料理、飲み物、果物、ケーキを自由にとりながらの歓談です。高校生達は積極的に高円宮妃殿下や日本の招待者の中に入り、闊達に受け答えしたり質問したりしていて、心から会話を楽しんでいる様子が傍からも十分に見て取れます。コミュニケーションの取り方のお手本を若い彼らから教わっている気がしました。歓談の合間には、藤崎一郎日米協会会長の祝辞、外務省をはじめこの「KAKEHASHI Project」に携わっている支援団体の代表の方々の歓迎の言葉があり、皆でジャパンボウルを勝ち抜いた高校生達を称えあいました。また、恒例になっている藤崎会長から高校生達に、ジャパンボウル顔負けの日本に関する高度なクイズが出され、回答を集計後、最高得点を勝ち取った高校生には、記念品が授与されました。また、今回はほぼ全員の学生さんが、この研修旅行で印象に残った体験やエピソードを日本語で語ってくれました。広島でのホームステイ体験、ホストファミリーとの交流、日本の高校生との交流、そしてお好み焼きに人気が集まっていました。

旅程の後半にあたるこの日、高校生達は旅の疲れも見せず、元気な笑顔で会場を終始明るく盛り上げてくれ、「日本が大好き!」と嬉しい言葉で私達を喜ばせてくれました。「また、日本に来ます!」「春、秋の日本にも是非来てね!」と声をかけあい、歓迎レセプションは幕を閉じました。

 

 

 

下に紹介した番組を見ることができます

7月14日に放送された「世界ニッポン行きたい人応援団」で、ジャパンボウルのことが紹介されていると、下の記事に書きました。

この回は「古民家を愛してやまない外国人 アメリカからご招待」というタイトルで、今年のジャパンボウルに参加して上位に入れずに日本行きが実現しなかったバレリアさんという女子高生を、番組が日本に招待するという筋書きです。

番組の最初のほう(およそ3分過ぎから9分まで)で今年のジャパンボウルの様子が紹介されています。

見逃した方という人、幸いなことにYouTubeに載っていました。ぜひご覧ください。

バレリアさんは、ジャパンボウルの後、番組によって日本へ招待され、訪れたかったという四国の祖谷渓谷にあるアレックス・カーさんが手を入れた古民家を訪ね、その後、江戸時代初期に建てられたという、秋田の古民家に宿泊して家族と交流します。

バレリアさんは、古民家に3日間宿泊をして、餅つきやお釜でのごはん焚きなど、いろいろな体験をします。番組の最後のほうで、お世話になった古民家の主である鈴木夫婦との別れの際に、さよならではなく「行ってきます」と言って、ウルウルさせる内容になっています。

ジャパンボウル出場の高校生TV番組に登場

7月14日(木) 午後7時58分~
テレビ東京「世界!ニッポン行きたい人応援団」

この番組は、世界にいる日本通の中からユニークな人材を見つけ出し、日本に招待して様々な体験をしてもらおうという内容です。

今回、ジ古民家ャパンボウルに出場したテキサスの高校生がTV局に見初められ、ジャパンボウル大会の模様と、日本での体験の模様が紹介される運びとなりました。ジャパンボウル大会や、出場する高校生達の様子などが分かると思いますので、興味のある方は、是非この番組をご覧ください。下記アドレスで番組の紹介をみると、彼女は日本の古民家に興味がある様子です。さて、彼女の日本通はジャパンボウル出場の特訓の賜物でしょうか? http://www.tv-tokyo.co.jp/nipponikitaihito/

放送日は過ぎてしまいましたが、アーカイブで番組紹介を見ることができます。

サクラとハナミズキの物語(3)

1915年(大正4年)、サクラの返礼として、タフト大統領からハナミズキの苗木が贈られました。植物学者スウィングル博士(W. T. Swingle)が、米政府代表として来日して、40本の白の苗木が東京市(当時)に手渡されました。

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写真はhttp://www.yasashi.info/ha_00014.htmより

40本の白の苗木は、日比谷公園に5本、都立園芸高校に2本、農水省果樹試験場沖津支場(清水市)に5本、そのほか東京大学理学部付属小石川植物園、繁殖のために羽根沢苗圃、野方苗圃など、全部で16か所に分植されました。2年後の1917年(大正6年)には、紅花種のハナミズキが12本、贈られてきました。これも日比谷公園、向島百花園などに分植されたそうです。

最初に日比谷公園で見たハナミズキの花、こんな歴史があったのですね。でもちょっと待って。白い花を咲かせていたハナミズキの木、細すぎませんか。1915年に植えられたのなら100年以上たっているので、もっと太いはずですよね。

日比谷公園は関東大震災で被災し、そのとき松本楼も焼失したそうです。当時あった運動場には被災者のための仮設住宅が建てられました(熊本地震のことが目に浮かび、胸が痛みます)。さらに太平洋戦争が勃発して東京が空襲を受けると、日比谷公園は軍用地となり、再建された松本楼は海軍省の将校官舎となりました。終戦後も日比谷公園は引き続きGHQに接収されて、接収が解除されたのは1951年(昭和26年)でした。

こんな混乱のためか、敵国から送られた木だったから伐ってしまったからか、定かではありませんが、日比谷公園のハナミズキは消失してしまいました。その後、ハナミズキの原木(つまり最初に贈られた木)を、東京都中野区在住の峰与志彦氏が探して、確かに原木だといえるのは、1.東京都立園芸高等学校(世田谷区) 白花 2本、2.農水省果樹試験場・興津支場(清水市) 白花 1本、3.東京大学理学部付属(小石川)植物園(文京区)白花 1本だと断定しました(手島悠介著「友情の二つの花 日米友好のハナミズキを探し求めて」岩崎書店、1997年による。調査は1990年)。

その後、興津支場のものは枯死、園芸高校の1本も1996年に台風で倒れ、小石川植物園の木も、下記のWebによると1990年代に雪害により裂けて菌が入り枯死して、切り株だけが残されたそうです。ちなみにこの切り株は、尾崎咢堂を記念した衆議院憲政記念館に展示してあるそうです(下のサイトに写真あり。かなり太いことが見てとれます。

東京大学総合研究博物館ニュース
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n1/v20n1_ikeda.html

ということは、確実に原木といえるのは、現在では都立園芸高校の1本だけということになります。この原木は現在でも健在で、高さはおよそ8メートルあり、通常の街路樹として見かけるものの倍近くあるそうです。高校では、この原木から次の世代を作出してあちこちに贈っているそうで、現在ある日比谷公園のハナミズキも園芸高校の原木から作出されたものです。

下のサイトによると(写真も借りました)、1996年4月に高校のフェスティバル実行委員会がハナミズキ渡来80周年の記念に、原木の子を植樹したという立札があったそうですが、散歩したときは気が付きませんでした。

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NHKNews7のブログ 野村正育
http://www.nhk.or.jp/news7-blog/200/19257.html

その後も、2012年サクラを贈った100周年記念にアメリカからハナミズキ3000本が贈られ、代々木公園などに植樹されました。

2015年にはハナミズキ寄贈100周年を記念して、いろいろな行事が行われました。日米共同で記念切手も発行されています。

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2015年4月には、キャロライン・ケネディー駐日アメリカ大使が都立園芸高校を訪ね、ハナミズキの植樹をおこない、ニュースになりました。

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この写真は下のサイトよりお借りしています。
http://www.nippon.com/ja/column/g00270/
こちらには都立園芸高校の活動などが詳しく載っています。
http://www.engei-h.metro.tokyo.jp/zen/introduction/07.html
ハナミズキ百年祭の写真などの載った園芸高校同窓会のサイト
http://tokyo-engei.com/AlumniAssociation/hanamizuki100nensai-2.html

日本から贈られたサクラはポトマック河畔で美しく咲き誇り、世界的な名所となりました。見通しの良い河畔に植えられたというロケーションの良さのためでしょう。また、毎年3月27日には大統領夫人が植樹をして、よくメインテナンスされています。

それに比べると、アメリカから贈られたハナミズキの運命。彼我のメインテナンスに対する考え方の違いか、「木を植えることが将来を信頼すること」であるのに、それが一時期、持続しなかったからなのか、分かりませんが、ちょっと寂しい気がします。

でも都立園芸高校ではハナミズキの原木が大切に維持されています。その後も2015年の植樹を含めて二度、アメリカからハナミズキが贈られています。合わせて三代にわたって、アメリカからのハナミズキが校内に植えられているのを、嬉しそうにまた自慢げに語る校長先生と、生徒たちの日米親善の活動を上のサイトで見ると、気を取り直して「歴史は人なのだ」と日米の若い人たちにその歴史を託すために、活動を続けなければと思うのです。

サクラとハナミズキのお話は、あちこちのサイトに載っていますが、JBSGの活動のきっかけとなったのが桜まつりだということで、書いてみました。また、写真をお借りしたサイトには篤くお礼を申し上げます。

「ジャパンボウル」のブーとピンポーン!

「ジャパンボウル」というと、どうも多くの日本の人はアメリカンフットボールのことを思い出すようですね。

アメリカでは大学がフットボールチームを持っていて、日本の六大学野球のように大学同士が対戦して競い合います。日本の東京六大学や首都大学、関西六大学野球と違って、カレッジフットボールのゲームには学生ばかりでなく、近隣からも大勢の一般の人たちが大学構内にある競技場に集まります。シーズン終了後には成績優秀校が対戦する「ローズボウル」とか「シュガーボウル」というチャンピオン・シップ・シリーズがあって、またまた盛り上がります。ローズとかシュガーというのは開催地の特産品の名前です。
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日本でも「ライスボウル」というボールゲームがあって、学生代表チームと社会人代表チームが東京ドームで日本一の決定戦を行っています。ライスというのは日本の特産品ということでしょうね。

でもって「ジャパンボウル」の方はというと、1976年から1993年まで、アメリカのカレッジフットボールの東西対抗オールスター戦として、日本で開催された試合の名称として使われました。アメリカンフットボールの出前でしょうか。ですから今はもう行われていません。
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でもって私たちが応援している「ジャパンボウル」は、このページを見てくれている人はもう既にご存知のように、アメリカの高校生の日本語・日本文化の知識を競い合う全米大会の名前です。ですから、
whatisJapanBowlということになりますね。

日本ではこの高校生の知的ゲームの方の名称はまだまだよくは知られていないようで、JBSGとしては、その知名度アップに頑張っていかなければ、と思っています。

 

サクラとハナミズキの物語(2)

前回の続きです。登場人物を紹介したので、これらの人々がどのようにかかわりあって、アメリカにサクラが贈られたかのお話です。でもこのお話は、ネット上に載っている情報(前回の最後に紹介したワシントンサクラ物語)に詳しく書かれています。

ちょっと、余計なことを。上に引用したサイトの高峰譲吉博士の紹介のところに、氏は「「消化薬のタカジアスターゼ」やホルモンの「アドレナリン」を発明した人です。」と書かれています。化学者としてはここところに「ウン?」と感じました。

タカジアスターゼはともかく、アドレナリンはもともと人も含めて動物が持っているもので、発明できるものではありません。高峰譲吉は上中啓三とともに、牛の副腎からアドレナリンを抽出して結晶化に世界で初めて成功したのであって、決して新たに発明したわけではありません。

閑話休題。さて、サクラの話に戻ります。実は、このあたりのお話を、JBSGのアドヴァイザーである神尾りささんが絵本にしているので、それを紹介した方がいいと思います。最初のページは次のようなものです。

RisaKamioFirstPage絵本はPDFファイルになっています。神尾さんの許可を得て、下のリンクでダウンロードできるようにしておきます。
「シドモアさんと百年の夢」神尾りさ 改訂版2013.9.

五人の人の思いが一つになって、日本からアメリカにサクラが贈られたんですね。しかも一度は失敗して、それを乗り越えて。本当に何かを為すためには、人と人とのつながり、絆が大事なのだということがよくわかります。

さらに五人のかかわりについてもう少し書こうと思ったら、ワシントンDC日米協会会長のJohn Malottさんが書いた「Mrs. Taft Plants a Tree - How the cherry blossoms came to Washington」という小冊子がMalottさんから送られてきて、そこにはさらに詳しく経緯が書かれていました。そこでその最後の「あとがき」のような部分だけを、借りることにします。もっとも大事な点だと思うので。Malottさんの原文と、私のつたない訳を載せておきます。書いた人の気持ちがうまく日本語になっているといいのですが。

Like many other people, I have long admired the beauty of the flowering Japanese cherry trees, and I knew the basic facts about Mayor Ozaki and how the trees came to Washington. But as I started to read about Japan’s gift to America, I learned that there were many other people involved in making this happen, each for their own reasons — Eliza Scidmore, Dr Jokichi Takamine, David Fairchild, and Nellie Taft. As I studied more, that led to learning about the people who were instrumental in transforming the physical appearance of Washington at the beginning of the 20th century, creating the site where the trees were planted — the City Beautiful movement, Teddy Roosevelt, and even, in a way, Pierre L’Enfant.

Learning and telling the story of how the trees came to Washington — and it’s a great story — made me realize that at the end of the day, history is about people — the dreams they hold and the things they do. By definition, planting a tree is an act of faith in the future, and what these people did a century ago is still with us today. We should all be grateful to them.

拙訳
「多くの人たちが思うように、私もサクラの花を本当に美しいとずっと思ってきたし、サクラを贈ってくれた東京市長・尾崎行雄氏のことや、どういう経緯でサクラがここポトマック河畔へやってきたかの大筋は知っていた。しかしながら、日本からアメリカへの贈り物に関する資料を読み始めると、尾崎氏以外にも多くの人たちが、この贈り物の実現に絡んでいることを知ることになった。Eliza Scidmore、Dr Jokichi Takamine、David Fairchild、そしてHelen Taftがその人たちであり、それぞれに思い入れがあった。さらに調べてみると、20世紀の初頭にワシントンDCの街並みを作り変えて、サクラが植えられている現在の場所を作りだした「都市美運動」、ワシントンDCのこの運動を支持した26代大統領Theodore Roosevelt、さらに遡ればGeorge Washingtonとともに首都のデザインをしたPierre L’Enfantについても知るところとなった。

桜の木がどういう経緯でワシントンDCに植えられたのかを学び、書き進めると、それは実に壮大な物語なのだが、歴史は人なのだ、人が夢を抱き、その実現のために事を為す、それに尽きることを実感する。「木を植えること」は将来を信頼するという行為であり、実際にこれらの人々が一世紀前に行ったことが、現在の我々のもとにある。今を生きる我々は、誰もが彼らに感謝すべきだと思うのである。」

MalottCovePageこの小冊子、とても凝った作りになっています(上の写真は表紙です)。Malottさんの許可を得て、この小冊子のPDFを載せておきます。ファイルのサイズが大きいですが(3.84Mb)。
Mrs Taft final brochure layout 12 2011
Copyright(C) 2012 The Japan-America Society of Washington, Inc.

こうして1912年3月27日にポトマック河畔にヘレンとエリナの手によって桜が植えられ、これが発端となって1935年に市民団体の共同支援で桜祭りが開催され、その後、第二次世界大戦の中断などがありましたが、1947年には再開され、毎年、この時期に桜祭りが行われてきました。例年、3月27日には大統領夫人が桜を植えることになっています。

このサクラの返礼に、1915年(大正4年)にハナミズキが日本に贈られ、日比谷公園などに植えられたのでした(まだ続く)。

第24回ジャパンボウル全米大会 優勝はモンタビスタ高校(CA)!

4月14日と15日に開催された第24回ジャパンボウル大会が無事終了しましたので、その様子をお知らせいたします。

今年はグアムからニューヨークまでの全米各地から76チーム、総勢221名の高校生が参加しました。会場は例年と同じ、ワシントンDCの近郊、メリーランドのChevy Chaseです。レベルが1~4まで設定されていて、競技は3名で構成するチーム形式で行います。

まず初日は各レベルで予選が行われます。予選では、2回の筆記と1回の面接試験があり、計100の問題が出されます。質問の内容は日本語の語学力だけでなく、日本の現代史、文学、芸術、政治や経済の仕組み、日本の礼儀作法や特有の仕草、衣食住に関してなどと、非常に多岐にわたっています。下の写真は予選の一場面です。

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初日の夜には歓迎セレモニーが開かれ、参加者全員が昼間の戦い(?)を忘れて楽しみます。今年は玉川大学の太鼓グループ、和ロックバンド「奏手候」によるパフォーマンス、北尾まどか氏の将棋、「西浦流」代表の西浦喜八郎氏による香道、きゃりーぱみゅぱみゅのプロモーションビデオも手掛けた増田セバスチャン氏のアートプロジェクト「TIME AFTER TIME CAPSULE」のワークショップなどが行われました。

予選の筆記と日本語による面接試験の採点が集計され、各レベル上位3チームが2日目の決勝戦に臨みます。決勝戦は3チームがステージに並び、大会への参加者だけでなく、応援に駆け付けた各高校の友人や関係者、ワシントン近郊の高校生達に公開されます。例年この公開決勝戦は、観客の明るく元気な声援を受けて、大変に盛り上がります。競技の判定は客席の前に居る審査員が行います。下の写真は決勝戦の様子です。

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2日目の最後に各レベルの優秀チーム上位5チームの表彰があり、今年は在米日本大使館の尾池厚之特命全権公使が出席され、メダルの授与が行われました。レベル4の優勝校はカリフォルニア州モンタビスタ高校でした。モンタビスタ高校には、Mazda Foundationの支援で、日本研修旅行が授与されました。下の写真は優勝校モンタビスタ高校チームです。

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先日、送られてきた資料をもとにこの記事を書きながら、2012年4月に決勝戦を見に行った時の感動が蘇ってきました。そして皆さんに高校生達の知識の豊富さ、真剣で元気に頑張っている姿を是非一度見ていただきたいと思います。

ところで今年の出題例です。皆様、解けますか?

問題:次の4名の中で、俳人ではないのは誰ですか?A)松尾芭蕉  B)与謝蕪村 C)夏目漱石 D)正岡子規

答え:C)夏目漱石(でも漱石も俳句を作っていますよね)

問題:七福神の名前をローマ字で答えなさい。(最も多くの名前を答えたチームに点数が入る)

答え:Benzaiten, Bishamonten, Daikokuten, Ebisu, Fukurokuju, Hotei, Jurojin (またはKichijoten)

当日の模様を写した写真が以下のサイトにあります。
https://drive.google.com/folderview?id=0B_x2URtLcdC7c3pNSWI4QkFKTzg&usp=sharing

また桜祭りの様子がテレビジャパンで報道され、その中でジャパンボウルに参加した生徒へのインタビュー、特設ステージで「花は咲く」を歌う様子などが映っています。http://tvjapan.net/tvjapan_club/

テレビジャパンで報道された特設ステージで「花は咲く」を歌う様子はごく一部ですが、下記のYouTubeの動画では最初から最後まで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=v9dlYg8A0K0

サクラとハナミズキの物語

先日、日比谷公園を松本楼へ続く道を歩いていたら、左側にハナミズキの花がきれいに咲き競っていました。
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近づいてみると案内板が2つ立っています。公園が設置したグリーンアドベンチャーのためのもので、一つは「この樹木の名は?」となっていて、もう一つは「ハナミズキ」の紹介でした。
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どちらの案内板にも、当時の東京市長だった尾崎行雄氏(憲政の神様といわれる尾崎咢堂)が、明治45年にワシントンにサクラを贈り、その返礼に大正4年にアメリカ合衆国より贈られたものと書かれています。ワシントンのサクラといえば、我々JBSGと関係が深いワシントンDCのポトマック河畔のものであり、桜祭りをすぐに思いだします。

今、ここに咲いているハナミズキが、桜祭りとどんな関係があるのでしょうか。ちょっと探ってみました。

桜祭りが開催されるワシントンDCのポトマック河畔のサクラは、皆さんよくご存知のように日本から贈られたものです。そこには何人かの人たちが絡んだ、興味深いエピソードがあります。

一人目、明治中期(1885年)に日本を訪れてサクラの美しさに魅せられて帰国したNational Geographic Societyの記者であったEriza Scidmore。彼女はたった一人で、サクラを植える運動を始めます。24年間も!。
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二人目、植物界のインディー・ジョーンズともいえるDavid Fairchild。彼は、植物ハンターで、メリーランド州の自宅の庭に何種類ものサクラを植えて、アメリカでもサクラが育つことを証明します。
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三人目、アメリカ第27代大統領William Howard Taft夫人のHelen Herron Taft。彼女は夫である大統領から「真の大統領」と言われるほど、いろいろと決めることができる人でした。ファーストレディーになる前に何度も日本を訪ねたことがあり、日本が好きだったのです。1909年にファーストレディーになってワシントンに入ってから、彼女はワシントンDCの街並みを美しくする仕事を任されます。
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四人目、世界で初めてホルモンであるアドレナリンを結晶として抽出することに成功し、三共製薬を興しタカジアスターゼをヒット商品に仕立てた高峰譲吉。彼は当時、アメリカ人のキャロライン夫人とニューヨークに住んでいました。Jokichi_Takamine

 

 

 

そして五人目が冒頭の尾崎行雄になります。800px-Yukioozakicrop

 

 

 

この五人の人たちがどのように絡み合って、ポトマック河畔のサクラは花開くのでしょうか(以下続く)。

ワシントンDCのサクラに関しては以下のページが詳しいです。
ワシントンサクラ物語

肖像写真はいずれもWikipediaより。