サクラとハナミズキの物語(3)

1915年(大正4年)、サクラの返礼として、タフト大統領からハナミズキの苗木が贈られました。植物学者スウィングル博士(W. T. Swingle)が、米政府代表として来日して、40本の白の苗木が東京市(当時)に手渡されました。

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写真はhttp://www.yasashi.info/ha_00014.htmより

40本の白の苗木は、日比谷公園に5本、都立園芸高校に2本、農水省果樹試験場沖津支場(清水市)に5本、そのほか東京大学理学部付属小石川植物園、繁殖のために羽根沢苗圃、野方苗圃など、全部で16か所に分植されました。2年後の1917年(大正6年)には、紅花種のハナミズキが12本、贈られてきました。これも日比谷公園、向島百花園などに分植されたそうです。

最初に日比谷公園で見たハナミズキの花、こんな歴史があったのですね。でもちょっと待って。白い花を咲かせていたハナミズキの木、細すぎませんか。1915年に植えられたのなら100年以上たっているので、もっと太いはずですよね。

日比谷公園は関東大震災で被災し、そのとき松本楼も焼失したそうです。当時あった運動場には被災者のための仮設住宅が建てられました(熊本地震のことが目に浮かび、胸が痛みます)。さらに太平洋戦争が勃発して東京が空襲を受けると、日比谷公園は軍用地となり、再建された松本楼は海軍省の将校官舎となりました。終戦後も日比谷公園は引き続きGHQに接収されて、接収が解除されたのは1951年(昭和26年)でした。

こんな混乱のためか、敵国から送られた木だったから伐ってしまったからか、定かではありませんが、日比谷公園のハナミズキは消失してしまいました。その後、ハナミズキの原木(つまり最初に贈られた木)を、東京都中野区在住の峰与志彦氏が探して、確かに原木だといえるのは、1.東京都立園芸高等学校(世田谷区) 白花 2本、2.農水省果樹試験場・興津支場(清水市) 白花 1本、3.東京大学理学部付属(小石川)植物園(文京区)白花 1本だと断定しました(手島悠介著「友情の二つの花 日米友好のハナミズキを探し求めて」岩崎書店、1997年による。調査は1990年)。

その後、興津支場のものは枯死、園芸高校の1本も1996年に台風で倒れ、小石川植物園の木も、下記のWebによると1990年代に雪害により裂けて菌が入り枯死して、切り株だけが残されたそうです。ちなみにこの切り株は、尾崎咢堂を記念した衆議院憲政記念館に展示してあるそうです(下のサイトに写真あり。かなり太いことが見てとれます。

東京大学総合研究博物館ニュース
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n1/v20n1_ikeda.html

ということは、確実に原木といえるのは、現在では都立園芸高校の1本だけということになります。この原木は現在でも健在で、高さはおよそ8メートルあり、通常の街路樹として見かけるものの倍近くあるそうです。高校では、この原木から次の世代を作出してあちこちに贈っているそうで、現在ある日比谷公園のハナミズキも園芸高校の原木から作出されたものです。

下のサイトによると(写真も借りました)、1996年4月に高校のフェスティバル実行委員会がハナミズキ渡来80周年の記念に、原木の子を植樹したという立札があったそうですが、散歩したときは気が付きませんでした。

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NHKNews7のブログ 野村正育
http://www.nhk.or.jp/news7-blog/200/19257.html

その後も、2012年サクラを贈った100周年記念にアメリカからハナミズキ3000本が贈られ、代々木公園などに植樹されました。

2015年にはハナミズキ寄贈100周年を記念して、いろいろな行事が行われました。日米共同で記念切手も発行されています。

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2015年4月には、キャロライン・ケネディー駐日アメリカ大使が都立園芸高校を訪ね、ハナミズキの植樹をおこない、ニュースになりました。

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この写真は下のサイトよりお借りしています。
http://www.nippon.com/ja/column/g00270/
こちらには都立園芸高校の活動などが詳しく載っています。
http://www.engei-h.metro.tokyo.jp/zen/introduction/07.html
ハナミズキ百年祭の写真などの載った園芸高校同窓会のサイト
http://tokyo-engei.com/AlumniAssociation/hanamizuki100nensai-2.html

日本から贈られたサクラはポトマック河畔で美しく咲き誇り、世界的な名所となりました。見通しの良い河畔に植えられたというロケーションの良さのためでしょう。また、毎年3月27日には大統領夫人が植樹をして、よくメインテナンスされています。

それに比べると、アメリカから贈られたハナミズキの運命。彼我のメインテナンスに対する考え方の違いか、「木を植えることが将来を信頼すること」であるのに、それが一時期、持続しなかったからなのか、分かりませんが、ちょっと寂しい気がします。

でも都立園芸高校ではハナミズキの原木が大切に維持されています。その後も2015年の植樹を含めて二度、アメリカからハナミズキが贈られています。合わせて三代にわたって、アメリカからのハナミズキが校内に植えられているのを、嬉しそうにまた自慢げに語る校長先生と、生徒たちの日米親善の活動を上のサイトで見ると、気を取り直して「歴史は人なのだ」と日米の若い人たちにその歴史を託すために、活動を続けなければと思うのです。

サクラとハナミズキのお話は、あちこちのサイトに載っていますが、JBSGの活動のきっかけとなったのが桜まつりだということで、書いてみました。また、写真をお借りしたサイトには篤くお礼を申し上げます。

「ジャパンボウル」のブーとピンポーン!

「ジャパンボウル」というと、どうも多くの日本の人はアメリカンフットボールのことを思い出すようですね。

アメリカでは大学がフットボールチームを持っていて、日本の六大学野球のように大学同士が対戦して競い合います。日本の東京六大学や首都大学、関西六大学野球と違って、カレッジフットボールのゲームには学生ばかりでなく、近隣からも大勢の一般の人たちが大学構内にある競技場に集まります。シーズン終了後には成績優秀校が対戦する「ローズボウル」とか「シュガーボウル」というチャンピオン・シップ・シリーズがあって、またまた盛り上がります。ローズとかシュガーというのは開催地の特産品の名前です。
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日本でも「ライスボウル」というボールゲームがあって、学生代表チームと社会人代表チームが東京ドームで日本一の決定戦を行っています。ライスというのは日本の特産品ということでしょうね。

でもって「ジャパンボウル」の方はというと、1976年から1993年まで、アメリカのカレッジフットボールの東西対抗オールスター戦として、日本で開催された試合の名称として使われました。アメリカンフットボールの出前でしょうか。ですから今はもう行われていません。
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でもって私たちが応援している「ジャパンボウル」は、このページを見てくれている人はもう既にご存知のように、アメリカの高校生の日本語・日本文化の知識を競い合う全米大会の名前です。ですから、
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日本ではこの高校生の知的ゲームの方の名称はまだまだよくは知られていないようで、JBSGとしては、その知名度アップに頑張っていかなければ、と思っています。

 

サクラとハナミズキの物語(2)

前回の続きです。登場人物を紹介したので、これらの人々がどのようにかかわりあって、アメリカにサクラが贈られたかのお話です。でもこのお話は、ネット上に載っている情報(前回の最後に紹介したワシントンサクラ物語)に詳しく書かれています。

ちょっと、余計なことを。上に引用したサイトの高峰譲吉博士の紹介のところに、氏は「「消化薬のタカジアスターゼ」やホルモンの「アドレナリン」を発明した人です。」と書かれています。化学者としてはここところに「ウン?」と感じました。

タカジアスターゼはともかく、アドレナリンはもともと人も含めて動物が持っているもので、発明できるものではありません。高峰譲吉は上中啓三とともに、牛の副腎からアドレナリンを抽出して結晶化に世界で初めて成功したのであって、決して新たに発明したわけではありません。

閑話休題。さて、サクラの話に戻ります。実は、このあたりのお話を、JBSGのアドヴァイザーである神尾りささんが絵本にしているので、それを紹介した方がいいと思います。最初のページは次のようなものです。

RisaKamioFirstPage絵本はPDFファイルになっています。神尾さんの許可を得て、下のリンクでダウンロードできるようにしておきます。
「シドモアさんと百年の夢」神尾りさ 改訂版2013.9.

五人の人の思いが一つになって、日本からアメリカにサクラが贈られたんですね。しかも一度は失敗して、それを乗り越えて。本当に何かを為すためには、人と人とのつながり、絆が大事なのだということがよくわかります。

さらに五人のかかわりについてもう少し書こうと思ったら、ワシントンDC日米協会会長のJohn Malottさんが書いた「Mrs. Taft Plants a Tree - How the cherry blossoms came to Washington」という小冊子がMalottさんから送られてきて、そこにはさらに詳しく経緯が書かれていました。そこでその最後の「あとがき」のような部分だけを、借りることにします。もっとも大事な点だと思うので。Malottさんの原文と、私のつたない訳を載せておきます。書いた人の気持ちがうまく日本語になっているといいのですが。

Like many other people, I have long admired the beauty of the flowering Japanese cherry trees, and I knew the basic facts about Mayor Ozaki and how the trees came to Washington. But as I started to read about Japan’s gift to America, I learned that there were many other people involved in making this happen, each for their own reasons — Eliza Scidmore, Dr Jokichi Takamine, David Fairchild, and Nellie Taft. As I studied more, that led to learning about the people who were instrumental in transforming the physical appearance of Washington at the beginning of the 20th century, creating the site where the trees were planted — the City Beautiful movement, Teddy Roosevelt, and even, in a way, Pierre L’Enfant.

Learning and telling the story of how the trees came to Washington — and it’s a great story — made me realize that at the end of the day, history is about people — the dreams they hold and the things they do. By definition, planting a tree is an act of faith in the future, and what these people did a century ago is still with us today. We should all be grateful to them.

拙訳
「多くの人たちが思うように、私もサクラの花を本当に美しいとずっと思ってきたし、サクラを贈ってくれた東京市長・尾崎行雄氏のことや、どういう経緯でサクラがここポトマック河畔へやってきたかの大筋は知っていた。しかしながら、日本からアメリカへの贈り物に関する資料を読み始めると、尾崎氏以外にも多くの人たちが、この贈り物の実現に絡んでいることを知ることになった。Eliza Scidmore、Dr Jokichi Takamine、David Fairchild、そしてHelen Taftがその人たちであり、それぞれに思い入れがあった。さらに調べてみると、20世紀の初頭にワシントンDCの街並みを作り変えて、サクラが植えられている現在の場所を作りだした「都市美運動」、ワシントンDCのこの運動を支持した26代大統領Theodore Roosevelt、さらに遡ればGeorge Washingtonとともに首都のデザインをしたPierre L’Enfantについても知るところとなった。

桜の木がどういう経緯でワシントンDCに植えられたのかを学び、書き進めると、それは実に壮大な物語なのだが、歴史は人なのだ、人が夢を抱き、その実現のために事を為す、それに尽きることを実感する。「木を植えること」は将来を信頼するという行為であり、実際にこれらの人々が一世紀前に行ったことが、現在の我々のもとにある。今を生きる我々は、誰もが彼らに感謝すべきだと思うのである。」

MalottCovePageこの小冊子、とても凝った作りになっています(上の写真は表紙です)。Malottさんの許可を得て、この小冊子のPDFを載せておきます。ファイルのサイズが大きいですが(3.84Mb)。
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Copyright(C) 2012 The Japan-America Society of Washington, Inc.

こうして1912年3月27日にポトマック河畔にヘレンとエリナの手によって桜が植えられ、これが発端となって1935年に市民団体の共同支援で桜祭りが開催され、その後、第二次世界大戦の中断などがありましたが、1947年には再開され、毎年、この時期に桜祭りが行われてきました。例年、3月27日には大統領夫人が桜を植えることになっています。

このサクラの返礼に、1915年(大正4年)にハナミズキが日本に贈られ、日比谷公園などに植えられたのでした(まだ続く)。

第24回ジャパンボウル全米大会 優勝はモンタビスタ高校(CA)!

4月14日と15日に開催された第24回ジャパンボウル大会が無事終了しましたので、その様子をお知らせいたします。

今年はグアムからニューヨークまでの全米各地から76チーム、総勢221名の高校生が参加しました。会場は例年と同じ、ワシントンDCの近郊、メリーランドのChevy Chaseです。レベルが1~4まで設定されていて、競技は3名で構成するチーム形式で行います。

まず初日は各レベルで予選が行われます。予選では、2回の筆記と1回の面接試験があり、計100の問題が出されます。質問の内容は日本語の語学力だけでなく、日本の現代史、文学、芸術、政治や経済の仕組み、日本の礼儀作法や特有の仕草、衣食住に関してなどと、非常に多岐にわたっています。下の写真は予選の一場面です。

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初日の夜には歓迎セレモニーが開かれ、参加者全員が昼間の戦い(?)を忘れて楽しみます。今年は玉川大学の太鼓グループ、和ロックバンド「奏手候」によるパフォーマンス、北尾まどか氏の将棋、「西浦流」代表の西浦喜八郎氏による香道、きゃりーぱみゅぱみゅのプロモーションビデオも手掛けた増田セバスチャン氏のアートプロジェクト「TIME AFTER TIME CAPSULE」のワークショップなどが行われました。

予選の筆記と日本語による面接試験の採点が集計され、各レベル上位3チームが2日目の決勝戦に臨みます。決勝戦は3チームがステージに並び、大会への参加者だけでなく、応援に駆け付けた各高校の友人や関係者、ワシントン近郊の高校生達に公開されます。例年この公開決勝戦は、観客の明るく元気な声援を受けて、大変に盛り上がります。競技の判定は客席の前に居る審査員が行います。下の写真は決勝戦の様子です。

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2日目の最後に各レベルの優秀チーム上位5チームの表彰があり、今年は在米日本大使館の尾池厚之特命全権公使が出席され、メダルの授与が行われました。レベル4の優勝校はカリフォルニア州モンタビスタ高校でした。モンタビスタ高校には、Mazda Foundationの支援で、日本研修旅行が授与されました。下の写真は優勝校モンタビスタ高校チームです。

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先日、送られてきた資料をもとにこの記事を書きながら、2012年4月に決勝戦を見に行った時の感動が蘇ってきました。そして皆さんに高校生達の知識の豊富さ、真剣で元気に頑張っている姿を是非一度見ていただきたいと思います。

ところで今年の出題例です。皆様、解けますか?

問題:次の4名の中で、俳人ではないのは誰ですか?A)松尾芭蕉  B)与謝蕪村 C)夏目漱石 D)正岡子規

答え:C)夏目漱石(でも漱石も俳句を作っていますよね)

問題:七福神の名前をローマ字で答えなさい。(最も多くの名前を答えたチームに点数が入る)

答え:Benzaiten, Bishamonten, Daikokuten, Ebisu, Fukurokuju, Hotei, Jurojin (またはKichijoten)

当日の模様を写した写真が以下のサイトにあります。
https://drive.google.com/folderview?id=0B_x2URtLcdC7c3pNSWI4QkFKTzg&usp=sharing

また桜祭りの様子がテレビジャパンで報道され、その中でジャパンボウルに参加した生徒へのインタビュー、特設ステージで「花は咲く」を歌う様子などが映っています。http://tvjapan.net/tvjapan_club/

テレビジャパンで報道された特設ステージで「花は咲く」を歌う様子はごく一部ですが、下記のYouTubeの動画では最初から最後まで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=v9dlYg8A0K0

サクラとハナミズキの物語

先日、日比谷公園を松本楼へ続く道を歩いていたら、左側にハナミズキの花がきれいに咲き競っていました。
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近づいてみると案内板が2つ立っています。公園が設置したグリーンアドベンチャーのためのもので、一つは「この樹木の名は?」となっていて、もう一つは「ハナミズキ」の紹介でした。
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どちらの案内板にも、当時の東京市長だった尾崎行雄氏(憲政の神様といわれる尾崎咢堂)が、明治45年にワシントンにサクラを贈り、その返礼に大正4年にアメリカ合衆国より贈られたものと書かれています。ワシントンのサクラといえば、我々JBSGと関係が深いワシントンDCのポトマック河畔のものであり、桜祭りをすぐに思いだします。

今、ここに咲いているハナミズキが、桜祭りとどんな関係があるのでしょうか。ちょっと探ってみました。

桜祭りが開催されるワシントンDCのポトマック河畔のサクラは、皆さんよくご存知のように日本から贈られたものです。そこには何人かの人たちが絡んだ、興味深いエピソードがあります。

一人目、明治中期(1885年)に日本を訪れてサクラの美しさに魅せられて帰国したNational Geographic Societyの記者であったEriza Scidmore。彼女はたった一人で、サクラを植える運動を始めます。24年間も!。
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二人目、植物界のインディー・ジョーンズともいえるDavid Fairchild。彼は、植物ハンターで、メリーランド州の自宅の庭に何種類ものサクラを植えて、アメリカでもサクラが育つことを証明します。
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三人目、アメリカ第27代大統領William Howard Taft夫人のHelen Herron Taft。彼女は夫である大統領から「真の大統領」と言われるほど、いろいろと決めることができる人でした。ファーストレディーになる前に何度も日本を訪ねたことがあり、日本が好きだったのです。1909年にファーストレディーになってワシントンに入ってから、彼女はワシントンDCの街並みを美しくする仕事を任されます。
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四人目、世界で初めてホルモンであるアドレナリンを結晶として抽出することに成功し、三共製薬を興しタカジアスターゼをヒット商品に仕立てた高峰譲吉。彼は当時、アメリカ人のキャロライン夫人とニューヨークに住んでいました。Jokichi_Takamine

 

 

 

そして五人目が冒頭の尾崎行雄になります。800px-Yukioozakicrop

 

 

 

この五人の人たちがどのように絡み合って、ポトマック河畔のサクラは花開くのでしょうか(以下続く)。

ワシントンDCのサクラに関しては以下のページが詳しいです。
ワシントンサクラ物語

肖像写真はいずれもWikipediaより。